二十三歳にしてホテルレストランで料理長を務めるフランス人シェフ、ヴィクトール・エマニュエル氏。フランスと日本で研鑽を積み、現在はタスマニアのFreycinet Resort(フレシネ・リゾート)で日本料理を手がける。彼の料理と器への思いについてうかがった。

少年時代に芽生えた食への情熱

エマニュエル氏が初めて日本に興味を持ったのは十歳の頃。誕生日に父が連れて行ってくれた日本料理店で、カウンター越しに寿司を握る職人の姿を目にした瞬間、心に火がついた。素材を見極め、客と対話しながら料理を仕上げるその姿に、深い尊敬を抱いたという。

料理人になる夢を抱き、十四歳で夏の研修プログラムに参加し、十五歳で名門 Ferrandi Paris(フェランディ・パリ)に進学した。本格的な料理の道へと踏み出した。

しかし、フランスの高級料理店では厳格な序列があり、若手が魚に触れるまでには長い年月を要する。海の幸に魅せられていた彼は、その環境は自分には合わないと感じ、思い切って魚市場で働くことを選んだ。

そこではブルターニュやノルマンディーの海から届く新鮮な魚を扱い、自らの手でさばき、客と直接やり取りする日々。その経験を通して、料理を「素材に向き合う仕事」として捉えるようになった。この感覚こそが、のちに日本料理へと向かう原点となった。

素材へのまなざしが導いた日本での修業

ある日、フェランディ・パリを訪れた日本人シェフとの出会いが、彼の進路を大きく変えた。日本料理の「素材を生かす思想」に共鳴したエマニュエル氏は、日本での修業を決意する。

紹介を通じて東京・銀座の日本料理店「小十(こじゅう)」の店主、奥田透氏を訪ね、二つ星の懐石店「小十」と、その姉妹店「すし晴海」で研鑽を積んだ。多くの時間を過ごした「すし晴海」では、職人たちの繊細な所作と真摯な姿勢に強い影響を受けたという。

言葉が通じなくても、目で学び、手で覚えた。毎週奥田氏と共に豊洲市場で魚を選び、魚を捌くようになってからは和包丁を研ぎ、食材と道具と向き合う時間を重ねた。

「日本では包丁を生きもののように扱い、常に手入れを怠らない。その精神に感銘を受けました」と振り返る。

素材へのまなざし、職人への敬意、そして日々の鍛錬。日本での経験は、彼の料理哲学の礎となった。

エマニュエル氏の料理

新天地オーストラリアでの挑戦

修業を終えた彼が次に選んだのは、多文化が交わるオーストラリア。自由な発想を生かせるこの地で、エマニュエル氏は日本の技とフランスの感性を融合させながら、自身の料理を探求している。

器が伝える季節と物語

エマニュエル氏が特に重視するのは、料理を支える器の存在だ。盛り付けは料理の一部であり、視覚・感触・香りなど、五感すべてを使って体験を形づくるものだと捉えている。

「料理は味だけでなく、見た瞬間に伝わる印象も大切。器や盛り方で季節を表現できるのが日本料理の美しさです」と語る。

冬は土の温もりを感じる陶器を、夏は光を透かす磁器やガラスを。温度、色、素材の調和を意識しながら、皿の上に季節の風景を描くように料理を仕上げていく。

彼のレストランで使われる器の九割は日本製。開店準備の際に出会ったMUSUBI KILNの器は、手仕事の温かみ、多様な形、そして手にしたときの心地よさが理想的だった。一つ一つの器に個性があり、料理ごとに違う表情を見せる。その感覚が、彼の料理の発想にもつながっているという。

「手に取る瞬間の質感や重みまで、料理の一部になる」とエマニュエル氏は語る。日本で習得した器と料理の対話は、今も彼の中で生き続けている。遠いタスマニアの海辺でも、日本の美意識が息づいている。

季節を映す器
シェフチーム

エマニュエル氏の探求の旅は、まだ続いている。いつか自らの寿司店を開き、器も道具もすべて本物で、自分らしい料理を届けたいという。そのまなざしの先には、変わらぬ情熱が灯っている。


店舗情報

Mount Paul Lounge(マウント・ポール・ラウンジ) タスマニア・フレシネ・リゾート内の日本料理レストラン。地元食材と日本の技法を活かした創作コースを提供。 1799‒1819 Coles Bay Rd Coles Bay, TAS 7215

※ Mount Paul Lounge の器の一部は、エマニュエル氏と Musubi Lab で選び、現地までお届けしました。