石川県能登町の宇出津は、山と海に挟まれた港町です。その一角に、明治41年(1908年)から続く鍛冶屋があります。ふくべ鍛冶。つくるものは、包丁だけではありません。硬い貝をこじ開けるための鉤、畑の鍬、山で使う鉈、船の上でロープを切る刃物。この土地で誰かが必要としたものが、ここでかたちになってきました。
三つの「野」
ふくべ鍛冶が名乗るのは「野鍛冶」です。刀鍛冶、包丁鍛冶、鋏鍛冶、鍬鍛冶と、鍛冶屋にもいくつもの種類がありますが、野鍛冶はその土地の暮らしの道具を丸ごと引き受けます。
営業を担当する万行さんは、こう説明します。
ここには山と海と町、三つの「野」があります。私たちのような野鍛冶は、そのすべての暮らしに関わる道具を、つくり、直すんです。
海に出る漁師や海女、山を耕す農家、台所に立つ人。「困りごとは、鍛冶屋のところに集まってくるんです。伝統的な漁や農を守って、安心を提供して、地域の生業を支える。そこに価値があると思っています」。
宇出津は、魚を漁師から直接買って自分でさばく人が珍しくない町です。ものによっては、店で売っている包丁では歯が立たない。よく切れて丈夫な刃物が、生活の前提として組み込まれています。
初代の干場勇作さんは輪島で修行し、能登町の藤波で店を開きました。大正2年からは行商を始め、馬車に金床を積んで奥能登の集落を回っています。その形は今も残っていて、過疎の進んだ集落へは車で出向きます。刃物を抱えて年配の方が山を降りるのは、簡単なことではないからです。
孫の代まで
ふくべ鍛冶の刃物には「孫光」という銘が入ります。孫の代まで切れ味が続いてほしい、という意味です。
刃には安来鋼の青紙2号を使います。硬く、粘りにくく、刃こぼれしにくい鋼です。そして、その鋼を刃先だけでなく刃の全長に通してある。だから何度研ぎ減らしても、薄くなってもまだ切れます。
売って終わりにしたくないんです。長く使ってもらいたい。
細部にも同じ考え方が通っています。表面の黒い被膜は「黒打ち」といって、鍛造のときに鉄の表面にできる酸化被膜です。技術的にはこれも錆の一種ですが、赤錆と違って金属の腐食を防いでくれる黒錆です。「黒打ちは、錆びにくいというだけの話ではありません。長く使う道具をつくるという、私たちの前提に沿っているんです」。
柄には山中塗が施されます。水に強くするためです。そのうえで、角を丸く落として滑らかに仕上げてある。「よく切れる包丁でも、柄に角が立っていると手が痛くなる。長い時間使えるように、丸めて整えています」。
道具を融通し合う関係
柄の塗りを山中塗の職人が手がけているのは、石川の産地どうしの横のつながりからです。
石川の伝統産業の世界には、強い横のネットワークがあるんです。みんなで助け合って、お互いを引き上げていく。山中塗の作家さんとは自然と関係ができますし、輪島塗の職人さんや、柄の材料を出してくれる木工の方とも近い。
その関係の芯にあるのが、道具です。干場さんが続けます。
地元の野鍛冶には、道具をあるべき形に戻す技術がある。だから職人さんは、困ったときに自然とうちに来るんです。それで関係が深まっていく。
道具は、伝統産業と切り離せない。工芸の話をしているようで、実は道具の話をしている。ふくべ鍛冶の立ち位置は、そこにあります。
年に二万本を研ぐということ
ふくべ鍛冶には「ポチスパ」という、包丁の研ぎと修理を宅配で受ける仕組みがあります。全国から年間およそ二万本が届きます。
これは便利なサービスというだけの話ではありません。
これだけの本数を研ぐには、それだけの鍛冶職人が要ります。研ぎ屋さんの多くは職人ひとりでやっていますが、うちは十一人います。この規模だから需要に応えられるし、新しい職人を育てられる。仕事の量と継続がなければ、技術は受け継げません。需要を確保できることが、文化の持続につながるんです。
技術が絶えるのは、後継者がいないからだと言われます。ただ、その手前にあるのは仕事の量です。研ぎの依頼が全国から集まってくることが、能登に鍛冶職人を十一人置いておける理由になっている。
震災のあと、焼けた道具が持ち込まれた
2024年の能登半島地震では、道が陥没し、建物が倒れ、火が出ました。
輪島の朝市通りが大きな火災に遭いました。職人は道具がなければ働けません。命に等しいほど大事なものです。それが、すべてと一緒に焼けてしまった。
金属の部分は残っていても、高熱を浴びた鋼は軟らかくなり、使いものにならなくなります。
輪島塗の職人さんが、泣きながら道具を持ってこられました。見ると、ひどく曲がっている。普通ならもう直せない状態です。でも私たちも同じ職人ですから、その道具がどれほど大事か、瞬時にわかる。一刻も早く仕事に戻れるように、優先して直しました。
ふくべ鍛冶自身も被害を受けましたが、他に比べれば軽いほうだったといいます。だから人を助ける側に回れた。
地域の産業を守るという、これまでやってきたことが、そのまま震災後の対応につながったのだと思います。
復旧はまだ途中です。震災から一年の時点で、輪島商工会議所の調査に「営業している」と答えた輪島塗の事業者は6割ほどでした。二年が経っても、仮設の工房で仕事を続けている職人がいます。働ける場所に戻れたという意味では前進ですが、終わっていないということでもあります。
避難のときに包丁を持ち出した人がいた、という話から生まれた道具もあります。両刃のマキリです。「三日間を生き延びなければならないかもしれないとき、サバイバルナイフはとても心強いものになります」。1908年からつくり続けてきたマキリに、要望の多かった両刃を与えた一本でした。
野鍛冶は、戦後の日本では集落にひと軒ずつあるほど当たり前の存在でした。それが今では、中山間地や半島、離島に百軒ほどしか残っていません。
工芸の話をするとき、私たちはつくられたものを見ます。器を、漆を、布を。けれどその手前には必ず道具があり、道具をつくり直す人がいます。ふくべ鍛冶の包丁を手に取ると、百十八年ぶんの「困った」を「良かった」に変えてきた重さが、そのまま手に残ります。